甘い関係だけど、Sweetではない。この甘みの正体は何だろう?
味覚にも色々な甘さがあるように、付き合う男によって、きっと、その甘さの種類も違うのだろう。
08年-春。綾瀬ルカ(26歳)は、15歳年上の41歳の男と付き合っている。
私は、その男のことを愛情を込めて”ジジイ”と呼んでいる。
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甘い関係だけど、Sweetではない。この甘みの正体は何だろう?
味覚にも色々な甘さがあるように、付き合う男によって、きっと、その甘さの種類も違うのだろう。
08年-春。綾瀬ルカ(26歳)は、15歳年上の41歳の男と付き合っている。
私は、その男のことを愛情を込めて”ジジイ”と呼んでいる。
よく晴れた5月のある日。
石山さゆり(45歳)は、腕時計を見て、正午前であることを確認する。
交差点を早足で渡り、タクシーに乗り込む時に、一度振り返り、さっきまで居た白い建物を見上げる。
・・・病院。
私は、(・・・こんな大きい病院だったんだ)と思い、「お父さん大丈夫?」と、先に乗り込んだ父に声を掛ける。
父は、その声には答えず、苦しそうに咳き込みながらシートに身を沈めている。
私みたいな女のことを”バカな女”と言うのだろう・・・。
安藤美砂(35歳)は、一人で『割烹ゑびす』銀杏の間にいる。
きっと、鬱々としたオーラが出ているに違いない。
灰色で、どんよりとしたオーラだ。
「はぁ・・・」
気がつくと、深い溜息ばかりもらしている。
まだ、私が20代の頃、ヘアサロンでの他愛のない会話で、聞いたことがある。
「30過ぎてからの失恋は堪えるよ」と。
その時は、(30過ぎて失恋なんて切ないよね~。まあ、それまでに幸せになるから、私には関係ないけどね)、ぐらい思っていた。
それが、どうして?
私が、その立場にならなきゃいけないのよ!
中嶋彩子(29歳)は、3歳になる息子を連れて、『割烹ゑびす』銀杏の間に来ている。
息子の名は、健太と言う。銀杏の間に洗濯機のダンボールを持ち込み、その中に入って遊んでいる。
「ねえ、ここは、銀杏の間でしょう?じゃあここは、何の間?」
「健ちゃんの間かな~?」
「ブー!渦巻きの間ー。グルグルグルグル~」
3歳のおしゃべり王子は、ダンボールの中で回って、おどけて見せる。
「う~ん。目が回る~。アハハハハハハハ」
「楽しそうだね~」
永田博美(17歳)は、すっかり途方に暮れ、彼は、本気で落ち込み、これからどうしようかと、考え込んでいる様子だった。
右隣を歩いている彼の顔は、今にも泣き出しそうなほど、悲壮感に満ちている。
そして、多分・・・私もそんな顔をしているに違いない。
通りですれ違う人達も、私達を包む暗い空気に気づいているだろう。
降り落ちてきた雨粒が通りのアスファルトの色を変えてゆくのを見ていると、一層、暗い気分になる。
いつまでも降り続きそうな雨・・・。いつまでも濡れ続ける二人・・・。
・・・トボトボと、傘も差さずに歩く二人には、まったく明るい要素が無かった。
鈴木京子(58歳)は、今夜の食事に着て行く服がなかなか決まらず、1時間近く、あれこれと悩んでいた。
結局、白と黒を基調にした上品なプリント柄のワンピースに、ベージュのトレンチコートと黒のパンプス。
アクセサリーは、パールのネックレスを着けることにした。
玄関先で、30年連れ添ってきた夫に「一体、何時間掛かっているんだよ」と、小言を言われる。
「いいじゃない。今日ぐらい」
そんな小言に、笑顔で応える。
服を選ぶのに時間が掛かったのには、理由がある。
今夜、私の誕生日に、夫が美味しいものをご馳走してくれると言う。
素直に嬉しかったので、オシャレをして出掛けたかったのだ。
地下鉄を降り、夫と肩を並べて、しばらく歩く。
都会の隠れ家的な一室と、話題になっている『割烹ゑびす』銀杏の間へと向かう遊歩道には、僅かな雪が残っている。
それでも、時々吹く風には、春の匂いが含まれていて、なんだか優しい気持ちにしてくれる。
「・・・久し振りのデートね」と、おどけて言うと、
夫は「ああ」と、気のない返事だ。
【3日前の出来事・・・。】
びっくりした!
竹下奈々子(33歳)は、仕事を終え、スマップの新曲を鼻歌でハミングしながら、いつものパーキングへと向かっていた。
そこには、にわかに信じ難い光景があった。
愛車のショコラ色のマーチの窓ガラスが割られていて、まさに男がゴソゴソと中を物色している最中だったからだ。
私は、初めて体験する状況に、どうしたらいいのか分からなくなり、軽いパニック状態に陥っている。
これは私のマーチだろうか?
深呼吸して、ここがいつものパーキングで、いつも駐車している番号であることを確認する。
・・・間違いなく私のマーチだ。
どうしたことか、窓ガラスが割られている!壊されている!
そして、男が何かを盗もうとしている!
この場合は、「キャー!」と叫ぶべきだろうか?それとも「泥棒!」と叫ぶべきだろうか?
少しづつ冷静さを取り戻し、襲って来た時、すぐに逃げられるように相手との距離と逃げ道を確保する。
大きく深呼吸をひとつした後、私は、キャーでも、泥棒!でもなく、こう言った。
「誰ですか!何やっているんですか!」
男は、ビクリ!と反応して、ゆっくりとこちらを見た。
都会の隠れ家的一室『割烹ゑびす』銀杏の間。
竹内結香(42歳)は、向かいに座る息子の友哉を見て、ホッと、安堵の表情を浮かべている。
友哉の前には、水色のラムネの瓶があり、瓶の中では、小さな気泡がひとつ、またひとつと上昇している。
その様子を私は、イタリア産の赤ワインを飲みながら眺めている。
今夜は、卒業祝いと高校の合格祝いを兼ねて、親子二人での食事会だ。
ホッと、安堵したのは、不安の裏返しでもある。
随分と、手探りで子育てをしてきたので、大切な事を伝えることが出来ているか、いつも不安が付いてまわった。
それは、今でも変わらない・・・。
ただ、一区切りついて、今まで大きな事件もなく、無事でやってこられたことを、本当に良かったと思っている。
室内には、会話の邪魔をしない静かな音量で、オーティス・レディングのドック・オブ・ザ・ベイが流れている。
男子と女子6人のこじんまりとした同窓会だったけど、とてもいい時間だった。
羽田美希子(37歳)がミチルと会ったのは、今年のお正月だ。
近所のスーパーで買い物をしている時に、すれ違い様に、ミチルが私に声を掛けてきたのだった。
お互いに「えっ?・・・あー!久し振りー!」「やっぱりー」と驚いた声であいさつをした。
私のカゴの中には、プチクリームパンとポテトチップスと豚ひき肉と餃子の皮とチキチキボーンとゴボウサラダが入っていて、
ミチルのカゴには、トマトとシメジとお刺身用のサーモンとチキチキボーンが入っていて、
どちらともなく「・・・チキチキボーン美味しいよねー」と言って、笑い合った。
その時に、「マイコも近くに住んでいて、マサハルも実家の床屋に戻っていて、後を継ぐみたいだよ」みたいな話になって、
「プチ同窓会が出来るね」と、話が盛り上がったのだった。
ミチルから連絡を受けたのは、それから数週間経ってからだ。
「3月21日金曜日PM7時。『割烹ゑびす』の銀杏の間で」
都会の隠れ家的な一室。『割烹ゑびす』銀杏の間。
極々小さい音量で、シンディ・ローパーのガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファンが流れている。
中川美穂(24歳)は、邦題は何だったかなあ?と考えて、そうだ!ハイスクールはダンステリアだ!と気付いたところだ。
ユミコとサトミとジュリも集合時間のPM7時30分に間に合って、既に、フランス産の辛口の白ワインのボトルが1本空いている。
私達4人は大学の同じサークルで、卒業してからも、誰かの誕生日とか、誰かが悩んでいる時とか、ただなんとなくとか、とにかく・・・会っている。
不思議と話題は尽きることはない。
同じような話でも、なんだかいつも新鮮だ。
サトミの話には、なぜか感情移入してしまって、ついつい熱くなってしまう。
「その男、バッカじゃないの!」
何度、この台詞を言ったか分からない。
今夜も、例によって、恋愛話で盛り上がっている。
「ねぇ、最高の理想の男って、どんなんだろうね」
サトミが楽しそうに話題を振ってくる。
ヒマワリが好き。
太陽の光に輝くヒマワリ畑は、今までに何度も頭に浮かんだ風景だ。
小さい輪のヒマワリを花屋で発見して以来、結婚式は、この小さいヒマワリをいっぱいにして式場を飾ろうと思っている。
私にとって黄色は、明るい希望に満ちた未来の色だ。
桜井サチ(31歳)は、『割烹ゑびす』銀杏の間でそんなことを考えていた。
小さな音量で耳に届く、サム・クックのワンダフル・ワールドが心地良く感じる。
PM6時45分。
ここは、都会の隠れ家的な一室『割烹ゑびす』銀杏の間。
店内には、チェット・ベイカーが歌うマイ・ファニー・バレンタインが静かに流れている。
里田麻衣子(27歳)は、職場の後輩の加藤一樹を待っている。
加藤にどうしても言いたいことがあって、麻衣子から誘ったのだ。
加藤に対して好意を抱いている訳ではない。
むしろ、まったくと言っていい程、男としての魅力を感じていない。
自分の仕事に自信を持てず、消極的になって常におどおどとしている加藤に、どうしても、ひと言言いたくて我慢できなくなったのだ。
頼りない雰囲気と自分の意見を言えない加藤に、いい加減イライラしている。
都会の隠れ家的な一室、『割烹ゑびす』銀杏の間で、私は、ナナコと食事をしている。
久し振りに会うナナコは、一層、美しくなっていた。
今まで嗅いだことのない、コスメの甘い香りをさせている。
「フラ上手くなったんだよ」
そう言って、微笑む。
思いきり口角の上がった笑顔は、あの頃のままだ。
いつかと同じように、私の向かいに座って、シェリー酒を美味しそうに飲んでいる。
今年もあと数日で終わろうとしている。
陽はすっかり傾いていて、辺りは、夕暮れの寂しさにすっぽりと覆われている。
私は、高速を飛ばし、空港へと急いでいる。
ナナコに、何か、大切なことを伝え忘れているような気がして・・・。
何か、もっと言うべきことがあるような気がして・・・。
モヤモヤとした気持ちを抱えて、アクセルを踏み込んでいる。
『割烹ゑびす』銀杏の間で、こうしてナナコと食事をするのは、もう何回目になるだろう?
向かいに座って、日本酒を飲んでいるナナコを見ながら、私は、ぼんやりと、そんなことを考えている。
・・・なんて。
そんな冷静な精神状態ではない!
ここ数回、たたみ掛けるように、プロポーズの波状攻撃を仕掛けているのに、はっきりとした返事をもらっていない・・・。
かと言って、催促するのは、大人気ないような気もするので、私から、返事は?などと切り出してはいない。
何より、No!と言う返事をもらった時の心構えが全く出来ていない。
「答えは、No!・・・ごめんね」
ナナコの口角が上がった笑顔で、そう答えられると、・・・もう、立ち直ることは出来ないだろう。
歩いて、その場から帰れるかどうかも分からない。
正直、ぼんやりと、そんなことを考えている。
店内には、メロウな声のボサノバが静かに流れている。
埃にまみれたケースから、オベーションのギターを取り出す。
2年前、弦を切ってから、このギターケースの中で、ずーっと眠っていた・・・。
私は、カラオケも苦手なので、音楽はもっぱら聴く方専門だが、このギターは、10年以上も前に、勢いで山野楽器で買ったものだ。
オべーションを弾いて、歌っているロックシンガーを見て、カッコいい!と思ったのがきっかけだ。
オベーションと言えば、枯葉をモチーフにしたリーフホールのアダマスが有名だが、私が持っているのは、通常のセンターホールのギターだ。
エレクトリック・アコースティック・ギター。略して、エレアコと呼ばれている。
私は、ローコードしか押さえることが出来ないし、チューニングマシンを使わないと、チューニングも出来ない。
”ひまわり畑”の次は、プレイボーイの新垣さんの教えに沿って、”プロポーズ②自作の歌を贈る”を実行する訳だが・・・。
う~ん・・・、どうしよう?
用意周到だろうか?抜かりは無いだろうか?
私は、『割烹ゑびす』へと向かう遊歩道で、銀杏の間が”向日葵の間”に変わっているのを想像している。
今夜、私は、決戦の日を迎えている。再び、ナナコにアタック!プロポーズを試みる。
それほど肩肘を張っている訳ではないが、ただ、緊張で震えが止まらない・・・。
数週間前、『割烹ゑびす』銀杏の間で、私は、プレイボーイの新垣さんと食事をし、プロポーズについてのレクチャーを受けた。
それは、同時に、男とは何たるかを教わることでもあった。
今夜は、男ふたりで飲んでいる。
ここ『割烹ゑびす』では、ナナコと食事することがほとんどで、
私が、男と食事をしたのは、過去に3人ぐらいなものだろうか。
実を言うと、今夜、
『割烹ゑびす』を教えてもらった人物と飲んでいる。初めて、ここ銀杏の間で御一緒した人物。
プレイボーイの新垣さんだ。
還暦をとうに迎え、年金生活に入って13年目という噂も聞くが、肌の艶と身のこなし、身なりは50代前半に見える。
実際の年齢は分からないが、年齢を知ったところで、何がどうなる訳でもない。
「50代、60代の男が、30代の魅力を追いかけることはない。
毎日、自信と誇りを持って、堂々と胸を張って、背筋をシャンと伸ばして歩いてゆくだけだ」
初めて来た銀杏の間で、プレイボーイの新垣さんは、そんなことを言っていた。
「ナナコ」と、呼び捨てで呼ばれるのは、抵抗がある。
だからと言って、特別に、こう呼んで欲しい、という呼び名がある訳じゃない。
生理的に苦手というより、不意に、苦手だなと感じることが、最近多くなった。
きっと、コミュニケーションの距離が変化すると、そんなことを感じるのかもしれない・・・。
前の夫”昔の男”が口にする「ナナコ」にも、イラッとする瞬間がある。
名前を呼ばれるたびに動悸が速くなり、戸惑ってしまうが、わたしは、訓練された笑顔でそれを隠している。
訓練された笑顔・・・。
わたしは、百貨店で美容部員として働くようになった時、笑顔の訓練をした。
顔の筋肉を知ること。歯のお手入れをすることから始めた。
「いー」の状態をキープして、口角を上げ、歯が見えるように笑顔を作る。
化粧をしてキレイに変身する瞬間が好き!と自分で言えるぐらい、メイクの腕を磨き、常に新しいスキルも習得した。
スキルに自信がつくと、立ち振る舞いは自然になる。
お客様がキレイになって帰る時に、お見送りする笑顔が、今のわたしの笑顔だ。
冬の夜空。冬の海。冬の花火。冬の雨。
寒さに空気がキリリと引き締まって、目に映る風景が、やけに澄んで見える頃・・・。
冬が始まる11月は、そんな季節の始まりでもある。
今夜、夜空の瞬きが多く見えるような気がするのも、きっと、そのせいだろう。
・・・11月は、私にとって特別な月だ。
ナナコと結婚式を挙げたのが11月だった。
よく晴れた日曜日だった。
別れた今は、いい思い出でもなく、悪い思い出でもなく、ただただ特別な日として、私の胸にシコリを残している。
今夜、私は、ある決意を持って、ここ『割烹ゑびす』の銀杏の間でナナコを待っている。
都会という名の荒野・・・。
私は、『割烹ゑびす』銀杏の間で、ナナコを待っている。
テーブルの上に両ひじをつき、顔の前で両手を組んで、虚ろな視線で待っている。
・・・憂鬱だ。
人の心が通わない、殺伐とした世の中。
そういう世の中でしか生きていけず、そういう世の中の方が似合ってしまうほど、汚れた自分がここにいる・・・。
誰かに、狙われているような気がする。
やけにキナ臭い夜。
今夜も事件が起こりそうだ・・・。
意識的ではないが、私は、ニヒルな笑みを浮かべる。・・・ふっ。
『割烹ゑびす』へと続いている遊歩道の落ち葉を踏むと、カサカサカサと音がする。
もう秋だな、と思うと同時に、私は、この季節が好きだったことを思い出す。
普段は意識しないので分からないが、ふとした瞬間に、こういう気持ちになることがある。
槙原が完全試合を達成し、長嶋監督が優勝した年は、小さい頃、巨人が好きだったことを思い出し、
ビートたけしがバイク事故で顔面麻痺になって、TV復帰の会見を観た時は、本気で嬉しくて、私は、ビートたけしが好きだったんだなぁ、と思ったし、
カーコンポからオーティス・レディングが流れると、夜に繁華街をドライブするのが好きだったのを思い出す。
落ち葉のカサカサを聞き、私は、そんなことを考えながら、ナナコの待つ銀杏の間へと向かった。
”今夜は、彼の人生の中で最もタフな一日になるだろう・・・”
いつか、テレビで観た、メジャーリーグの監督の同時通訳されたコメントだ。
・・・『割烹ゑびす』銀杏の間でひとり・・・私は、静かに目を閉じる。
何度も、何度も、頭の中でリピートされる”タフな一日”というコメント。
室内に、静かに流れるボサノバの甘いボーカルに、私は、冷静さを取り繕うのに必死になる。
数日前のこと。どうやら、ナナコの機嫌を損ねてしまったらしい・・・。
女性と話す時は、一時たりとも、うわの空ではいけない。
常に気にかけているよ、という態度で接さなければいけなかった。
往々にして、女性の会話は話題が飛ぶので、全て大事なことだというスタンスに立って、耳を傾けることが必要だった。
つまり・・・、何が不機嫌の理由になっているのか、私は、よく分っていない状態にある。
208X年。
富士山の大爆発から60年、首都が仙台に遷ってから50年が経つという。
富士山の噴火の数時間後、風に運ばれた火山灰は、東京の空を真っ黒く覆い、地上に降り落ち、コンピューターの中に入り込み、多くの障害をもたらした。
被害は意外に大きく、何ヶ月にも渡り、首都機能は正常化しなかった。
国民のストレスもピークに達した頃、追い討ちをかけるように、南関東直下地震が発生した。
360万人もの死者、行方不明者を出し、液状化現象で地盤は大きく変化した。
ライフラインは完全に停止し、疫病が発生し、首都の機能は完全に麻痺したのだった。
あちらこちらで暴動が起こり、多くの人が心的外傷性ストレスと診断された。
都会の隠れ家的な一室『割烹ゑびす』の銀杏の間で、
私は、ナナコを待っている。
いつものことだが、
いつ来るか、いつ来るか、と鼓動を速くしながら待っている、この時間が、私は好きだ。
どんな格好をして来るのだろうとか、何を話そうかとか、
17歳の頃のような、新鮮な気持ちで待っていることに気づく。
冷たい風、人恋しい秋。・・・季節の機微には逆らえない。
ナナコのトートバッグから顔をのぞかせている雑誌の表紙に、『激うま料理特集』と見出しがある。
TVも雑誌もそうだが、食欲の秋のグルメシーズンになると、必ず組まれる特集だ。
激うま、って何だよ?どんだけだよ。
私は、笑ってナナコに尋ねる。
「えっ?あっ、この雑誌のこと?激うまって、・・・すごく美味しいってことじゃない?」
・・・なんてクールな答えなんだろう。
私は、そういう意味じゃなくてさ・・・、と言い掛けて、止めた。
年に何回かは、呼吸や波長が合わない日もある。
ジュジュジュジュジュジュジュジュジュジュジュ~
『割烹ゑびす』の厨房で、何かが焼き上がっていく音が、ここ銀杏の間まで聞こえてくる。
襖がスッと開き、部屋中に広がる香ばしさ・・・。
「えび餃子です」
EWF(アース・ウインド・アンド・ファイアー)のセプテンバーが聴こえている。
今日は、確か・・・土曜日。休日のはずだ。
ベッドでまどろんでいた私は、この曲が、ケータイの”着うた”だと気づくのに、ややしばらく掛ってしまった。
普段は、マナーモードにしているのだが、気づかないうちに解除をしたのだろう。
そうか・・・着メロは、EWFだったか、と懐かしんでいるうちに、切れてしまった。
AM11時27分。
着信メモリーを見る。
ナナコからだ。
そろそろ秋が訪れたんだなぁ、と感じるのは、
夕暮れから夜へ変わろうとする僅かな時間にだけ漂う、あの空気の匂いだ。
どういう匂いかは、言葉では表現できない。
私の鼻先をくすぐるようにして、その匂いはスーッと、通り過ぎてゆく。
今年は、都会の隠れ家的な一室、『割烹ゑびす』へと向かう遊歩道で、
その匂いを嗅いだ。
・・・それは、2時間前の出来事。
今、銀杏の間では、私とナナコの間で、熱いバトルが繰り広げられている。
「今夜は随分と、待ちぼうけなのね」
浮かない顔の私に向かって話し掛けてきたのは、
ここ『割烹ゑびす』を取り仕切る、ベビーフェイスの着物の女将だ。
時計の無い銀杏の間で、気にしないつもりでいたのだが、腕時計をチラリと見やると、既にPM9時を回っている。
降り始めた雨のポタ、ポタ、という音のせいもあって、私は多少、苛立った口調になる。
・・・待たされるのは、昔から慣れているよ・・・レイコ・・・。と答え、笑顔をつくる。
「・・・もう・・・、昔話だね・・・」
そうだ・・・。
ナナコには秘密にしているが、私は女将のことを知っている。
店内に静かに流れているBGMは、ボサノバだ。
今夜は、なぜか日本酒がすすみ、私とナナコは随分と酔っていた。
ここ『割烹ゑびす』銀杏の間に響く声も、いつもより、ちょっとだけ大きいかもしれない。
ただ、そんなことを気にして、トーンを落としましょう、という状態でもない。
夕暮れの早い時間に、
私は、ここ『割烹ゑびす』の銀杏に間に来ている。
ベビーフェイスだが凛とした振る舞いの女将が、細く窓を開けると、湿度のない風がスッと通り過ぎる。
通りを走る自転車のチリンチリンというベルの音が聞こえてきて、遠ざかってゆく。
夏の長い夕暮れは心地いい。
ナナコは4年前に別れた私の元妻だ。
今風に表すと”元ツマ・元ダン”といった感じだが、
実際は、一度夫婦になり別れると、そんな軽い感じの関係ではなくなる。
1年ほど前から、再び会うようになった。
ここ最近は月に1~2回ペースで会っており、
ここ『割烹ゑびす』の銀杏の間で食事をしている。
都会の隠れ家的な一室で、
私はナナコと食事をしている。
ナナコは横顔のラインがシャープな美人で、
笑うと口角が上がって、一層美しさが際立つ。
今、フラを習っているのよと微笑む(ナナコはフラダンスを“フラ”と呼んでる)
向かいに座って、シェリー酒を美味しそうに飲んでいる。
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