- 2008年5月 6日 06:00
- 個室「銀杏の間にて」
甘い関係だけど、Sweetではない。この甘みの正体は何だろう?
味覚にも色々な甘さがあるように、付き合う男によって、きっと、その甘さの種類も違うのだろう。
08年-春。綾瀬ルカ(26歳)は、15歳年上の41歳の男と付き合っている。
私は、その男のことを愛情を込めて”ジジイ”と呼んでいる。
私は、都合6人の男と付き合ったことがあるが、内訳は、年下が二人、同い年が一人、年上が三人だ。
秘密だが、・・・年上の三人のうち一人は、妻帯者だった。
20歳から21歳になる頃の話だ。あれは・・・なんて言うか、疲れた。
年齢の割には大人びているよね、と言われるのは、きっと、そんな理由もあるのだろう。
だが、基本的に年上と付き合う方が、私は楽だ。
年上の男と付き合うと、背伸びをしなくてもいいので、素の自分でいられることが多い。
年上だから、包容力があると言うのは、幻だと思っているが、年上の男は、包容力をアピールするので、それに甘えている。
(時々、そんな彼らが”愛しいバカ”に感じることがある。そして、時々、人生について、いいことを言ったりする)
ジジイも多分にもれず、時々、人生について、いいことを言う”愛しいバカ”に感じることがある。
今夜、私は食事に誘われていて、『割烹ゑびす』銀杏の間で、ジジイを待っているところだ。
普段のデートなら、男に迎えに来てもらって、一緒にお店に入るのだが、『割烹ゑびす』は、別だ。
私が先に着いて、ジジイを待つ。
”大好きな彼を待っている自分”が好きな訳ではない。
女将に案内された銀杏の間で、一人待っている時に、ぼんやりと流れる時間が好きなのだ。
この部屋の雰囲気のせいだろうか。
私は、ぼんやりと考え事をする。
耳を澄ますと、デルフォニックスのラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラブ・ユーが流れている。
ひとつ恋が終わると、気持ちをリセットする。
それは、私の場合、消しゴムで過去を消してしまう行為ではなく、上から白く塗りつぶす行為だ。
恋だけではない。
大切な気持ちの切り替えは、いつも、そのように行われる。
子供の頃、12色のクレヨンケースを開くと、いつまで経っても使われない白いクレヨンがあった。
何故あるのか不思議だったし、何時、どのような時に使うのかさえ分からなかった。
・・・大人になって、今なら分かる。
真っ白く塗りつぶして、新たにスタートを切りたい時が何度もあるからだ。
カツカツカツカツ。スタスタスタスタ。スッ。
靴音が近づき、襖が開く。女将とジジイだ。
着物をこれ以上ないと言うぐらいキレイに着こなしている、凛とした佇まいの女将。
対照的に、品の悪さとつまらないプライドと下心と加齢臭が、隠しても隠しても、滲み出ているジジイ。
なにやら楽しそうに話しながら入って来る。
「おう、待った?」とジジイ。
「ようこそいらっしゃいませ」と女将。
私は、二人に向かって微笑みで応える。
「じゃあ、例の頼むわ」
ジジイが女将に目配せをしている。
「かしこまりました」
そう言って、女将は静かに襖を閉め、退室する。
スッ。
「おっ、春らしい可愛い格好をしているね。すごく似合うよ」
ジジイは、ファッションとかヘアスタイルやメイクを褒めることを忘れない。
私は、素直に嬉しく思う。挨拶のように、軽い感じで言うのがいい。
ツイてない一日も、こんなひと言で救われることもある。
「ルカ、いい女になるかどうかは、これからの3年間、どんな経験をするかが大切だ」と、41歳のジジイは言う。
「読む雑誌だって、”Ane-Can”から”Oggi”に変わるだろう?
女は、26歳から30歳が変わるタイミングなんだよ。
その間に、どんな経験をしたかで、30代の生き方が決まってしまうんだよ。
変わるタイミングなんだから、変わろうとしないとダメだよ」
「そうだね」
ジジイが、もっともらしい事を言って、私は、クールな態度でそれに答える。
言っていることが、本当かどうかは分からないが、何かのヒントになることはある。そう思って聞いている。
「そうだろう」
ジジイが嬉しそうな顔をする。
スッ。
襖が開き、女将が料理を運んで来る。
白い焼魚。そして、ほんのりと甘い香り。
「銀だらの粕漬です」と、女将が言う。
「粕漬って・・・なんだか年寄りって感じじゃない?」
思わず口が滑って、私は「あっ!」と言って、首をすくめる。
「ルカ!失礼だぞ。・・・でも、まあ、食べてみれば分かるよ。びっくりするぞ」
「ふふふ。どうぞお召し上がりください」と、女将が微笑む。
私は、その昔食べたことがある、たら粕漬のパサパサの味を思い出している。
箸で身をほぐす。サクッ。
「あっ!」身離れの良さと、流れ出る脂の多さに驚きの声が出る。
向かいでジジイが、訳知り顔で笑みを浮かべている。
私は、大きく口を開けて、パクッ。
「美味しい!そして、上品な甘み!」
この台詞を言うと、ジジイがいい気になるのは分かっていたが、思わず出たひと言だ。
「そうだろう。これはさ・・・」と、言い掛けたその声に、女将の優しい声色が被さる。
「この銀だら粕漬は、小樽の地酒、田中酒造の”大吟醸寳川”の粕を使っているんですよ。
そして、漬魚を造っているのも、小樽の加工屋さん、中野水産です」
ジジイは、「オレが言おうとしたのに・・・」と小声でつぶやき、いいところを見せることが出来ず、悔しい顔をしている。
「ふふふ。美味しいでしょう?
もちろん”大吟醸寶川”の酒粕のを使っていることが味のポイントになっていますが、それ以上にポイントになっているのは・・・」
「なっているのは・・・」私とジジイは、女将の次の言葉を促す。
「実は・・・、低温で長時間掛けて、甘めの味醂でしっかりと下味を付けているんです」
「白い粕の下に、そんな秘密が・・・」
「漬魚って、焼く時に味噌とか粕を落とすでしょう。食べた時に物足りなさを感じたことってないかしら?
その点、この銀だら粕漬は、味に深みがあって・・・ふふふ」
ゴクリ!と、女将の説明に喉が鳴り、もうひと口食べようと、箸を近づけたその時だ。
よく見ると、粕の焼き跡がハートの形をしていることに気付いた。
「あれ?・・・ハートだよね?」と、私はジジイを見る。
「気付いた?」とジジイ。
「粕に書いたラブレターだよ」
「何よそれ!全くセンスが感じられないんですけどー」
軽くあしらいながらも、私は、嬉しく思っている。気持ちよく照れている。
本当に、ジジイは、このような細かい演出が上手い。
こんな時だ。”愛しいバカ”だなと思う時は。
パクッ。
プリッとした身の締まりと、ジュワーと音がしそうな勢いでしたたる脂。
私は、目を閉じ、その味を噛みしめる。
「銀だらの原料は、アラスカ産です。ワシントン以北と以南で身質が違うんですって。
やはり、北の魚の方が身に締まりもあって、脂のりも良いようです」
閉じたまぶたの裏側に、女将が優しく話してくれている姿が浮かぶ。
「中野水産は、昭和30年代より銀だら粕漬を造っているんですよ」
「えー!そんな昔から、この味を・・・」
思わず目が大きく開いてしまう歴史の長さ!
「ふふふ。この味になったのは、もっと後になってからのようですけど」
「さっき言っていた小樽の地酒・・・、えーと何だっけ?」
「寶川だろ!・・・女将、持って来てよ」
ジジイが普通なら嫌われそうなほど、馴れ馴れしい口調で、女将に言う。
女将は静かに微笑むが、その言葉には答えず、あくまでも自分の意思で私に微笑み、
「寶川、お持ちしましょうか?」と言う。
スッ。
襖が開き、女将が”大吟醸寶川”を持って来る。
升に入ったコップに注がれると、小気味良い音がする。
コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ。
コップからこぼれて、升をなみなみに満たした寳川に、そっと唇を持ってゆく。
スーッ。
優しく吸うようにして、ひと口飲む。
鼻から抜ける香りがいい・・・。フルーティーだ。
そして、なんて淡く、サラリとした味わいなんだろう。
「・・・ホ・ウ・ジュ・ン」
私は、思わずケーブルTVで観た”セーラー服と機関銃”の薬師丸ひろこの「・・・カ・イ・カ・ン」のような口調になる。
ジジイが私の目を見つめる。
「どうだ、ルカ。美味いだろう?
酒米を極限まで磨くのが、大吟醸だ。精米歩留りは、50%以下。
米を磨くと、タンパク質、脂肪が落とされ、雑味のない洗練された味になる。
しかし、50%以下となると、発酵に必要なミネラル分、ビタミン類も失われるし、お米の個性も活かしにくくなる。
そこで、大切なのは何だと思う?」
「・・・」
「その後の工程だよ。低温の長期発酵。
・・・どれだけ慎重にやるか。どれだけ徹底してやるか。どれだけ神経を集中出来るかだ・・・。
ルカは、・・・大吟醸か?
人生は、本気になって楽しまないともったいないよ」
そう言って、笑う。
私は、もう一度、ハートの形の焼き跡がついた、白い銀だら粕漬を口に入れ、目を閉じて、ゆっくりと味わう。
そして、その白色の下に隠された無限の色と、重ねられてきた時間の意味を感じる。
・・・もっといろいろな経験をしよう!
リセットされた心が、鮮やかに彩られてゆくように・・・。
中野水産の『銀だら粕漬』は、トドックと店舗で好評発売中です。
”新・個室『銀杏の間』にて”は、今回で終了です。
また、いつか。
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