- 2008年4月22日 06:00
- 個室「銀杏の間にて」
私みたいな女のことを”バカな女”と言うのだろう・・・。
安藤美砂(35歳)は、一人で『割烹ゑびす』銀杏の間にいる。
きっと、鬱々としたオーラが出ているに違いない。
灰色で、どんよりとしたオーラだ。
「はぁ・・・」
気がつくと、深い溜息ばかりもらしている。
まだ、私が20代の頃、ヘアサロンでの他愛のない会話で、聞いたことがある。
「30過ぎてからの失恋は堪えるよ」と。
その時は、(30過ぎて失恋なんて切ないよね~。まあ、それまでに幸せになるから、私には関係ないけどね)、ぐらい思っていた。
それが、どうして?
私が、その立場にならなきゃいけないのよ!
二人の思い出の場所。『割烹ゑびす』銀杏の間。
そこに行けば、彼に会えるような気がして、今夜、訪れたのだった。
私は、おしゃれをした。春らしく、今年流行の花柄のワンピースにレギンス。Gジャンを合わせている。
アクセサリーは、大きめの白いネックレス。
メイクだって、新作の白いグルグルの入ったファンデーションをつけてみた。
精一杯、明るい格好をした。
会っても・・・、多分、私から話すことは出来ないだろう・・・。せめて、姿を見かけるだけでもいい・・・。
ひょっとしたら、出会った頃みたいに、声を掛けてくれるかもしれない・・・。
さすがに、そこまで考えて、一人ポツンと銀杏の間にいるという現実に気づくと、激しい自己嫌悪が襲って来た。
惨めだった・・・。
「はぁ・・・。私って、バカだなあ・・・」
どこからか、ノラ・ジョーンズのドント・ノウ・ホワイが流れて来て、一層、切ない気持ちになる。
「はぁ・・・」
もう立ち直れるかどうかも分からない。
若い頃、失恋したことは何度かあるが、すぐ次の恋がやって来たような気がしたし、
恋愛以外に、もっと私の存在証明をするものが、周りにいっぱいあったような気がする。
何故だろう?今でも、いっぱいあるはずだ。仕事とか。仲間とか。夢とか。希望とか。
それが、どうして?
「はぁ・・・」
考えるのが苦痛だ・・・。
突然の「さようなら」
私には、幸せのゴールテープが近くに見えていたのに、一瞬にして、暗闇に放り出されたようだった。
視界がグニャリと歪んだのは、初めての経験だった・・・。
真っ直ぐ歩けていない・・・。
地下鉄で、なんとかアパートにたどり着いて、思考が停止し、ただただボーッとしているしかなかった。
その時から、もう一ヶ月が経っているというのに。
また不意に、止めどなく涙がこぼれ落ちてしまいそうだ。
あの日から思い出しては泣いて、思い出しては泣いてを繰り返している。
それが、どうして?
泣いても泣いても、全然、楽にならない・・・。
若い頃なら一晩中泣いて、全て終わって、ケロッとしていたはずなのに。
銀杏の間で一人、シクシクと泣いていると、襖が開く音がした。
スッ。
着物姿の女将が入って来た。
泣いているのを気づかれるのが嫌で、私は顔を背け、バッグからハンカチを取り出す。
「ようこそいらっしゃいませ」
上目使いで女将を見ると、優しい微笑みをたたえているが、強い眼差しで私の様子を伺っている。
多分・・・、泣いていることに、気づいているだろう。
以前、彼と二人でここを訪れ、今は、惨めに一人で来ていることにも、きっと気づいているだろう。
短い沈黙の後、
「・・・美味しい白ワインがあるんですよ。どうですか?
イタリア産です。キリリとした辛口ですけど・・・、お口に合うかしら。
ただいまご用意致します。お待ち下さいませ」
そう言って、女将は静かに退室する。
スッ。
再び、襖が開き、冷えた白ワインと殻付きの鮮やかな赤色のボイルえびを持って、女将が入って来た。

ワイングラスをふたつ、テーブルの上に置き、ひとつを私の前に置き、ひとつを自分の前に置く。
「わたしも頂いていいかしら?」
そう言って、女将が微笑む。
「これ・・・なんて読むのかしらね?」
女将は、ワインのラベルをまじまじと見ながら、ケラケラと笑っている。
ワインを注ぐと、コッ、コッ、コッ、コッと規則的な音が銀杏の間に響く。心地良いと、私は思う。
「では、乾杯!」
女将が言い、グラスを合わせる。
カチン!
私も「乾杯・・・」と、小声で言う。
冷えたワインが喉を滑り落ちる。
「美味しい・・・」
そして、まだ、湯気が立ち上る真っ赤なえびの殻を剥き、小鉢のマヨネーズにつけ、ひと口。
パクリ!
「すっ、すごーい!プリプリしていて美味しい!」
「ふふふ・・・さっきまで、泣いていたのが嘘みたいね」
女将がそう言って、微笑む。
(げっ!やっぱり、気づいていたんだ。恥ずかしい・・・)私は、照れてうつむく。
「これは、ブラックタイガーえびって言うんですよ。
このえびの特徴は、体色は青味がかった灰色ですが、加熱すると鮮やかな赤色になることなんです」
「ホントだ・・・」
「でしょ。それと、このプリプリ感!他のえびと比較してもずんぐりとしているので、食感が好評なんです」
再び、私は、まだ湯気の上っている真っ赤になったブラックタイガーえびを手に取り、殻を剥く。
「熱っ、熱っ、熱っ」
そして、マヨネーズをつけ、もうひと口。
パクリ!
噛むたびに、プリッ、プリッと、音が聞こえてきそうなほどだ。
「ふふふ」と、女将が嬉しそうに笑う。
「このブラックタイガーえびも、最近よく耳にするバナメイえびもそうですが、養殖なんです。
”養殖”って聞くと不安かしら?薬で管理されているってイメージかしら?
このえびは、インドネシアのタラカン市で養殖されているんですけど、”粗放養殖”なんです。
人工的に区画された池で、餌を与える”集約養殖”と違って、自然に近い環境での放し飼いなんですよ。
1㎡当たり、1~3尾程度で、悠々と暮らしているなんて、うらやましいわ・・・。
そのせいかしら、養殖密度が低いから、伸び伸び育って、大型のえびが多いんです。
わたしの家なんて、狭くて狭くて、嫌になっちゃう。ふふふ」
「確かに、食べ応えのある大きさ・・・」
「あっ、そうそう。放し飼いだからって、全く管理されていない訳ではないのよ。
入荷した原料は、池毎にコードが決められていて、トレースが出来る仕組みになっているの。
・・・安心・安全の確保って、今の時代、とっても重要ね」
シリアスな問題。
私は、公私ともに暗いニュースが多い毎日を思い浮かべ、白ワインをグイッと飲む。キリリと喉に心地良い。
「赤って、食欲をそそりますよね。元気が出そう!」
ワインの力を借りた笑顔で私が言うと、女将が答える。
「ボイルする前のえびの色を見ますか?」
「えっ?」
スッと、襖が開き、運ばれてきたのは、グツグツと煮立った鍋と青味がかった灰色のえびだ。
「これがボイルする前のブラックタイガーえびです。
いいですか?見ていて下さい」
女将が鍋にブラックタイガーえびを入れ、塩を振る」
パッ。パッ。
私は、鍋の中をのぞき、思わず声を上げる。

「わーっ!すごい!あっと言う間に、真っ赤に変わっていくー!」
はしゃぐ私を、女将が母親のような、お姉ちゃんのような、親友のような視線で見守っている。
「・・・そうか・・・」
私は、つぶやく。
「すっかり、ふさぎ込んで、私、灰色にくすんでた・・・、もっと、前向きに変われるかな?」
顔を上げ、女将を見る。
今の私の顔は、昨日までの私の顔ではないはずだ・・・。
「大丈夫ですよ。きっと・・・鮮やかな自分色に変われますよ」
自分色・・・。
グツグツ。グツグツ。
私も、沸騰したお鍋の中にブラックタイガーえびを入れてみる。
そして、ゆらゆらと揺れながら、真っ赤に変わってゆく様子を、しばらく眺めていた。

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