- 2007年11月13日 06:00
- 個室「銀杏の間にて」
「ナナコ」と、呼び捨てで呼ばれるのは、抵抗がある。
だからと言って、特別に、こう呼んで欲しい、という呼び名がある訳じゃない。
生理的に苦手というより、不意に、苦手だなと感じることが、最近多くなった。
きっと、コミュニケーションの距離が変化すると、そんなことを感じるのかもしれない・・・。
前の夫”昔の男”が口にする「ナナコ」にも、イラッとする瞬間がある。
名前を呼ばれるたびに動悸が速くなり、戸惑ってしまうが、わたしは、訓練された笑顔でそれを隠している。
訓練された笑顔・・・。
わたしは、百貨店で美容部員として働くようになった時、笑顔の訓練をした。
顔の筋肉を知ること。歯のお手入れをすることから始めた。
「いー」の状態をキープして、口角を上げ、歯が見えるように笑顔を作る。
化粧をしてキレイに変身する瞬間が好き!と自分で言えるぐらい、メイクの腕を磨き、常に新しいスキルも習得した。
スキルに自信がつくと、立ち振る舞いは自然になる。
お客様がキレイになって帰る時に、お見送りする笑顔が、今のわたしの笑顔だ。
今夜、”昔の男”と『割烹ゑびす』で食事をすることになっている。
わたしは、昔付き合っていた男、前の夫も含めて全部、”昔の男”としてカテゴライズしている。
そうやって整理した方が、スッキリしていい。
『割烹ゑびす』に行く時は、地下鉄を使う。
地下鉄は好き。正確には、午後7時過ぎの地下鉄の中の風景が好きだ。
仕事帰りの疲れた顔、仲間と飲みに行く楽しい顔、デートの前の嬉しそうな顔、家族の待つ家路を急ぐホッとした顔。
色とりどりのファッションにメイク、会話。楽しそうな女の子を見ていると、こっちまでワクワクする。
聞こえてくる会話のトーンが、わたしの耳に丁度いい。人のファッションを見るのも楽しい。
わたしは、黒のロングブーツとAラインのコートを着ている。
黒のロングブーツは、径が細めでヒールが高い、シンプルなデザイン。
ワンピ風のコートは今年の流行で、わたしは、ショップの店頭に飾られていたAラインが素敵だと思い、カードで買ったものだ。大きいボタンが二つ付いていて、可愛い。
地下鉄から出ると、11月の夜風は、きっと冷たく感じるだろう・・・。
『割烹ゑびす』へ向かう遊歩道では、マフラーを巻き直し、背筋を伸ばして歩く。
ブーツのヒールが歩道を叩く音が、カツカツカツと心地いい。
わたしは、”昔の男”と、さばの山漬けの話をした日のことを思い出していた。
その時、わたしは、ハワイの女神になりたい、みたいなことを話した。
今みたいに、頻繁に会う前のことだ。
「この塩さば、食べてごらん」
そう言って、”昔の男”が指差したのは、こんがりと焼き目が付いた半身の塩さばだった。
「これは、国産の真さばだよ。
さばには、2種類あるの聞いたことがあるだろう?
真さばとゴマさばって。
真さばは、平さばと呼ばれていて、断面が楕円形なんだ。
対して、ゴマさばは、表面に黒い斑点がゴマのようにあるから、そう呼ばれている。断面は丸い。
釧路で獲れるさばは、ゴマさばも混じっているんだけど、ゴマさばって、どちらかと言えば、温かい海水を好むんだ。
北上しているのは、温暖化の影響かな?ほら、最近、ニュースで温暖化って言っているだろう。
真さばと比較して、ゴマさばは評価が低いけど、真さばが夏に味が落ちるのに対して、ゴマさばは、通年、味が変わらないから、夏にさばを食べるなら、ゴマさばなんだよ
・・・面白くない?こんな話」
いい大人が、子供みたいに楽しそうに喋るのは、好感が持てると思った。
”昔の男”が目の前で一生懸命喋る姿は、滑稽でもあるが、愛らしさが先に立った。
わたしは、意地悪にこう答えた。
面白くなーい!
「はは、そんなこと言うなよ」
わたしは、お皿にのった塩さばに箸を伸ばし、ひと口。
・・・うん?今まで食べた塩さばの中で、一番美味しいかも。
「どう?このさばは、秋から冬にかけて、三陸沖から銚子沖で獲れたさばだよ。
寒さば、秋さば、って言葉を聞いたことがあるだろう。それぞれ、さばの旬を指しているんだ。
寒の時期が旬なのは、九州沿岸のさば。
秋が旬なのは、太平洋沿岸のさば。
だから、これも旬の時期のさばなんだよ」
・・・旬だからか。・・・でも、それだけじゃないような・・・。
「さばは、春頃、伊豆半島沖で産卵して、餌を食べながら北上して来る。
北海道沖へと北上している間、脂肪は皮と身の間に貯められる。
そして、南下が始まる9月~10月に、脂肪が身に刺し込んでゆく。身も締まる。
秋さばが美味い!と言われるのは、そう言った理由なんだよ。
特に、八戸沖で水揚げされる戻りさばが良い、って何かに書いてあったなぁ。
これは、三陸、銚子沖だけどさ、まぁ食べようよ!」
その言葉と屈託のない笑顔に促されて、わたしは、もうひと口。
・・・うん?これは・・・?やっぱり、いつも食べている塩さばと違う・・・。
味がなんて言うか・・・深い・・・濃厚・・・。そして、まろやか・・・」
「気づいた?・・・とその前に、何か飲もうか?」
・・・。
「田酒にしよう!ナナコは?」
・・・じゃあ、ファジーネーブル。
わたしは、若い頃、ファジーネーブルばかり飲んでいた。居酒屋でもバーでもカラオケでも、ファジーネーブルを飲んでいた。
「日本酒にしなよ。上善如水が飲みやすいよ」
半ば強引に注文がされ、テーブルの上には、コップが入った升がふたつ置かれた。
「山漬けって、知ってる?」
鮭の山漬けって聞いたことあるけど・・・、と話に乗ろうとしたが、それ以上の知識を持っていないので、わたしは、考えるポーズをとる。
沈黙の時間を埋めるように、わたしは、コップに口を近づける。
香りとフルーティーな甘みが、スーッと喉をすべる。
あ、美味しい・・・。
「鮭の山漬けは・・・、”寒風秋鮭”とか”浜かぜ干し”とか、聞いたことない?
そんな感じで、このさばも塩漬けされて、塩抜きされているんだよ。
この真さばは、1尾づつ焼き塩を振っていて、約20時間、山漬けにしているんだ。
塩とさば自体の重みで、余分な水分が抜けるんだよ。
そして、タンパク質が分解されて、旨み成分のアミノ酸になる。
旨み成分が、一層凝縮されるんだよ」
ふ~ん。
そう言って、”昔の男”の顔を見つめると、穏やかな笑顔で、わたしを見ていた。
「塩かどが立たない、まろやかな味がするだろう?
塩抜きがポイントなんだ。
塩抜きには、水を使う。その水に緑茶を入れることで、真さばの旨みを残して、2%程のまろやかな塩味に仕上げている。
たかが、塩さばって思うけど、なんか手が込んでいて、スゴイと思わない?
足したり、引いたりして、まろやかな味になるんだって」
「人も経験を積んで、プレッシャーの重みに耐える経験を多くすると、”自分らしさ”が凝縮されて、表情に出てくるかもしれないね。
・・・なんて。・・・離婚の経験して、こんな話おかしいよね?ナナコ」
・・・あなたは、”昔の男”の一人なの。・・・普通の大人同士の会話、って受け止めているけど・・・。
そう言って、わたしは、口角を上げ、歯を見せて笑顔で答えた。
「・・・。不思議だな。笑顔って、本心を隠すことも出来るんだね。今の笑顔は、足してるけれど引いていない・・・、まろやなな感じじゃないな~」
・・・。
11月の冷たい風が吹く。
あの頃は、ナナコと呼ばれることに、抵抗は無かったのにな・・・。
それに・・・、どうして昔のことなんて思い出すんだろう。
わたしは、戸惑っている・・・。
二人の距離が変化していることに気付いているし、もう”昔の男”の一人ではなくなっていることにも気付いている。
わたしは、戸惑っている・・・。
ゑびすに着き、女将さんに案内されて、わたしは、銀杏の間の襖を開く。
スッ。
黒のロングブーツを脱ぎながら、わたしは、寒いね、と笑顔を送る。
「もうすっかり、冬の装いだね」
そうなの!これも買っちゃった!ワンピ風のコートが流行りなの。見て!このAライン!
わたしは、頭の中で足し算、引き算をして、思い切り口角を上げ、歯を見せて笑顔。
ねぇ、今のわたし、まろやかな笑顔になってる?
真さばの旨みが凝縮!「国産さば山漬まろやか塩味」は、トドックでお求めになれます。
紙面で見かけたら、是非!
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