- 2007年9月 4日 06:00
- 個室「銀杏の間にて」
「今夜は随分と、待ちぼうけなのね」
浮かない顔の私に向かって話し掛けてきたのは、
ここ『割烹ゑびす』を取り仕切る、ベビーフェイスの着物の女将だ。
時計の無い銀杏の間で、気にしないつもりでいたのだが、腕時計をチラリと見やると、既にPM9時を回っている。
降り始めた雨のポタ、ポタ、という音のせいもあって、私は多少、苛立った口調になる。
・・・待たされるのは、昔から慣れているよ・・・レイコ・・・。と答え、笑顔をつくる。
「・・・もう・・・、昔話だね・・・」
そうだ・・・。
ナナコには秘密にしているが、私は女将のことを知っている。
女将の名は、レイコと言う。
出会いのきっかけは、よく憶えていない。
二十歳を過ぎたばかりの頃、レイコは、すすきののクラブでホステスのアルバイトをしていた。
若さとスタイルと甘えた口元を武器にして、
バブルを引きずるスケベ親父から、時計、アクセサリー、バッグ、ゴルフ道具、海外旅行など、随分と貢がれていた。
いらない物は、リサイクルショップでお金に換えてもいた。
華やかないい女だったと同時に、なんてひどい女なんだ、とも思っていた。
そんなレイコに対して、下心がなかった、と言えば嘘になるが・・・。
一方で、颯爽とした印象も兼ね備えていた。
90年代。
今までの価値観が崩れ始め、映画の世界でしかなかったような、陰惨な事件が多く発生し、
日本には、暗く重い閉塞感、虚無感、喪失感があった。
このままでは、世界で一人取り残されてしまいそうな孤独感も、あちらこちらに蔓延していた。
レイコには、そんな世界をオブラートに包み込んで、その上を颯爽と歩いているイメージがあった。
カッコよかった・・・。
・・・昔のことを思い出すとセンチメンタルな気分になる。
私は、お通しを口に運び、ひと息つく。
活だこ沖漬。
活いか沖漬は、よく聞いたことがあるけど・・・。
スライスされた足の直径からすると、そう大きくはないな、
・・・柳だこか。
北海道、特に日本海、オホーツク海に多く生息するのは、みずだこ。
名前の割には、身がプリプリしている。
対して、柳だこが獲れるのは、太平洋。
浦河沖は、寒流の親潮と暖流の黒潮がぶつかる潮目だ。
潮目がぶつかる場所は、多くの魚種が獲れる。
柳だこは、確か・・・1月から9月に水揚げされるはずだ。
漁の方法も独特だと聞いたことがある。
大正時代からの伝統的な漁、空釣り縄漁・・・。
船からアンカーが投入されるのを想像しながら、もうひと口。
それにしても、この味が独特だ。醤油とも、ひと味、いや、ふた味は違う。
魚醤か?
日本の三大魚醤が頭に浮かぶ。
秋田しょっつる!う~ん・・・違う!
金沢いしる!これも違う!
香川いかなご醤油!違う!
海外か?
タイのナンプラーなら、もっと独特の匂いがあるはず!違う!
ベトナムのニョクマム!フィリピンのパティス!
あれも、これも違う!
私は、無意識にすがるような目でレイコを見る。
「魚々紫(ととむらさき)です」
・・・見事に、ビジネスライクな返答だ。
魚々紫は、日高沖の秋鮭を原料にした魚醤だ。
ミネラル豊富な天日塩と米麹で、じっくりと発酵させる。
魚醤と言えば、独特な匂いを想像するかもしれないが、
新鮮な原料を使うと匂いはしない。
仕込み、発酵、熟成、搾りの過程を経た、芳醇な香りがするだけだ。
搾られた魚醤が、一滴づつ自然落下するポタ、ポタという音が、耳を澄ませば聞こえてきそうだ。
・・・今夜の雨音とシンクロする。
そうだ・・・あの日も雨が降っていた。
10月の終わり頃だったと思う。
私とレイコが、すすきので食事をした夜。
ロビンソンの前で1時間は待たされた後で、
七輪の店か、おでん屋に行ったような気がするが・・・、
田酒を飲んだことは、憶えている。
久し振りだったこともあり、近況報告や最近の気になること、周りの気に入らないヤツの話や恋愛の話をした。
F45ビルのバーでは、レイコはシードルを。私はサイド・カーを飲んだ。
酔ってはいるけど、理性の残っているうちに帰ろうかと、通りに出たその時だ。
・・・突然、しゃくりあげた声で泣き出したレイコがいた。
歩道で雨に濡れた小さい身体。
初めて見るレイコの涙。
付き合っている男のことだとは思ったが、突然、見せられたレイコの弱さに、私は胸が切なくなる。
理由は聞かなかった。・・・聞けなかった。
私は、鼻出てるよ、と間の抜けた台詞を言うのがやっとで、不器用にハンカチを差し出した。
こうして、雨音を”カギ”にした、秘密はつくられた。
誰にだって、秘密のひとつやふたつぐらいはあるだろう。
そっと、フタをして閉じ込めた、振り返りたくない過去や、
心の宝石箱に仕舞っている、あの頃の思い出など。
私は、この夜の出来事を、宝石箱に仕舞った。
今夜みたいに、ポタ、ポタ、と雨音が聞こえると、開く秘密の宝石箱だ・・・。
・・・昔のことを思い出すとセンチメンタルな気分になる。
カツ、カツ、カツ、カツ。
急ぎ足の靴音。ナナコが来た。
「ごめん、ごめん。待ったでしょう?本当にごめんね」
ナナコは、私とレイコを見て、申し訳なさそうな顔をする。その上目遣いがチャーミングだと思う。
私は、待っている間にイライラしたことと、秘密の箱が開いてしまったことを反省する。
ナナコの視線がレイコへと移る。
「あっ、そうだレイコ。ドレスの色が決まったよ。キレイな紫!今度の日曜日に一緒に行かない?」
「行く!行く!」
えっ?
あれ?知ってるの?知り合い?(・・・どこまで、何を、知っている?)
「言ってなかった?同じフラのチームなの。すごい仲良しだよね~」
「ね~」
・・・。
私は、落ち着きを失った視線で二人を見る。
ナナコのいつもの笑顔。レイコの小悪魔のような微笑。そして、無常の雨音。
ポタ、ポタ、ポタ、ポタ・・・。
「魚々紫」を使った商品は、トドックで販売しています。
さんま魚々漬、鮭とば魚醤干しなど。
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